春日部郡 郡司 範俊なる人物についての覚書

                 1.春日部郡 郡司 範俊なる人物名が記述されている文書
                    鎌倉時代末期、元享2(1322)年6月27日付 春日部郡林・阿賀良村(現 小牧市大
                   字池ノ内か、その近くの地域でしょう。・・・筆者注)の名主 浄円ら6名が、花押を据えた
                   1通の請文を、鎌倉 円覚寺宛に出したのでありましょう。宛名は、明記されていないが、
                   内容から推察するに円覚寺宛であることは、明らかであります。
                    この請文は、円覚寺文書として残されているという。

                                            その内容は、「 当村は、春日部郡司 範俊開発の内たる条異議なく候、但し、彼の跡
                   篠木・野口野田以下は、関東御領として円覚寺御管領候といえとも、当村においては別
                   相伝の地として、宴源・浄円等面々累代相承し、今に相異なく候」と記述されていた。

                                            小牧の草分け的な史家 入谷哲夫氏も、林・阿賀良村について記述してみえました。詳
                   しくは、JA尾張中央 広報誌 ふれあい 2012.11月号 林村と三明神社と を参照下さい。
                   (  http://www.ja-owari-chuoh.or.jp/about/pdf/fureai-201211.pdf )

                    氏によれば、林・阿賀良村は、共に二ノ宮領であり、春日部郡司 範俊様より二ノ宮(大
                   縣神社)をお守りする役目をもらっており、代々親から子へと引き継ぐようにと言われておる
                   土地柄であり、名寄帳(土地台帳)もあります。と地頭である鎌倉 円覚寺に請文(誓約書)
                   と名寄帳を出したという。解釈であるようです。

                 2.春日部郡 郡司 範俊なる人物とは
                    <尊卑分脈>に記載された系図及び張州雑志 巻4 熱田大宮司系譜 P.480〜496参考
                     藤原季兼 −   藤原季範    − 範信    −  憲朝     −  範俊
                       尾張国目代        尾張氏に代わって           (千秋憲朝、後に千秋信綱  
                       ( 三河国在住      熱田大宮司           とも号し、建久8年に海東郡地頭職)     
                         三河四郎大夫                        − 範忠    - 忠季                                                                    本名 季風)             (熱田大宮司
                                           保元・平治の乱時
                                           源義朝に加勢。
                                           応保元年周防国へ
                                           配流。)
                                           - 範雅    -  範経      -  保範
                                           季範 五男    熱田大宮司     京都五条に在住カ。
                                           応保元年より   建久4年12月
                                           熱田大宮司    右大将源頼朝
                                                      より神馬献上
                                                      又、別録を賜る。
                                           −  女
                                           源頼朝母

                                          *   藤原季範について
                                                「 平安後期の熱田大宮司。藤原季兼の子。父は目代( 国司制度上,現地に赴任しない
                     国守が任国支配のために設けた私設の代官)として尾張一国を支配し,熱田大宮司の尾
                     張氏より妻を迎えた。季範の母は熱田大宮司尾張員職の娘。員職は外孫であるこの季
                     範に大宮司職を授け,季範は藤原氏による初代大宮司となる。のち従四位に叙される。

                      これにより大宮司職は尾張氏から,藤原氏の世襲となった。また季範の娘は源頼朝の母と
                     して知られ,当家は武家方とも縁戚を結んだ。」という。
                      <参考文献>『名古屋市史』,内藤正参『張州雑志』,田中善一『熱田神宮とその周辺』,西岡
                             虎之助「熱田社領を背景とする大宮司家の変遷」 (『荘園史の研究』)

                                              しかし、熱田社の大宮司家は、季範の子 範忠が熱田大宮司職を継いだようですが、保元・
                    平治の乱(1156・1159年)では、平清盛に負けた源義朝に一族郎党を挙げて加勢した為、
                    応保元(1161)年に、周防国へ配流されている。尾張国での熱田社の地位の低下が起こった
                    でありましょうか。その後は、尾張国は、平氏に味方する在地官人・在地土豪等で一色になって
                    いったという。
 
                   *  藤原範俊
                      尾張氏の外孫として熱田大宮司職を世襲した一族の末裔であり、4代前の尾張目代の権
                    勢を在地経営にも働かせたのでしょうか。自身は、尾張氏が、永代引き継いできた春日部郡
                    司の立場を継承し、小牧市東北部から春日井市にかけての広範な地域を開発。山野の多い
                    こうした地域において、荒廃公田の再開発、山野の占有を含むにせよ、多大な労力と財力を
                    駆使して開発したのでありましょうか。確証はありません。只単に、名主 浄円らに名前を使わ
                    れただけなのかも知れ無いと言う事も考慮しなければならないでしょう。(藤原範俊の部分は、
                    筆者の大胆な推測以外の何物でもありません事をお断りしておきます。)

                                             「 範俊の父は、藤原憲朝(千秋憲朝、後に信綱と号す。)であり、源頼朝挙兵時、はせ参じ、
                    奮戦、その功により、「海東地頭職」を、建久8(1197)年に得ている。が、承久の乱(1221年)
                    前後に、地頭職を改易されていた。おそらく京方加担の科によるものであろう。」と記述されてお
                    ります。( 小牧市史 通史 P.92 参照 )が、両書には、地頭職の改易の事は記述されてはい
                    なかった。
                     しかし、尊卑分脈(国史大系 巻60 上 下)の系図には、藤原憲朝(千秋憲朝とも号す。)の
                    父 範信が、尾張国海東郡地頭職に建久8年に補されたように記述されていました。

                     とすれば、春日部郡 郡司というのは、尾張氏が持ちえた永久職であり、尾張氏の外孫として、
                    それを引き継いだのでありましょうか。範俊が、開発地の活動をしたとすれば、承久の乱前後か
                    らと推察されます。
                     とすれば、鎌倉三代目将軍以降の頃の出来事かと推察いたします。が、円覚寺文書の内容と
                    は、辻褄と言う点で、合点がいかないのも事実であります。

                     故に、この円覚寺文書に出てくる郡司 某は、目代として入国した藤原氏が活躍していた頃の
                    古き謂れを、この当時の名主層が、後の子孫名で利用したのではないかと・・・。春日部郡 郡司 
                    範俊なる人物とやや曖昧な書き方であったことも辻褄が合わない事であるのではないかと。

                     更に言えば、自然村落名 林・阿賀良村という名称も、現在の村という捉え方ではなく、未開地
                    (山・川・海等)の新規の開墾地として存在した”村”ではなかったのか。この当時世襲可能な職”
                    保”という名称の税の収集単位と同様な位置付けではなかっただろうか。

                     話を元に戻しまして、こうした辻褄が合わない事に対する明快な答えを、講座 日本荘園史 5 
                    P.359で、 上村喜久子氏は、述べてみえました。「篠木荘は、春日部郡司 範俊開発内であっ
                    て、その後、関東御領となったといわれている。関東御領を北条氏領と解して、範俊を承久の乱
                    で京方に与した海東郡地頭 中条信綱の子 範俊にあてる見解もある。しかし、野田郷(春日井
                    市)、林村(小牧市)、阿賀良村をも合わせた 範俊開発 地域の広がりとその地理的状況、国司
                    平忠盛と郡司との主導のもとに一円立荘された経緯を勘案するならば、春日部郡東北部一帯の
                    開発領主とは、天養元(1144)年当時の郡司 橘氏一族とみるのが自然であろう。」 と。

                     ところで、橘氏は、春日部郡か丹羽郡 どこの郡司であったのであろうか。その点については、
                    上村氏は、明快ではない。

                     丹羽郡郡司 善峯氏は、橘姓を名乗る時があったかと。
                     この熱田大宮司職を引き継いだ藤原氏一族の系図(尊卑分脈・張州雑志 巻4 熱田大宮司系
                    譜)のどこをみても橘氏と苗字を替えた一族は見当たりませんでした。只、蜂屋氏は、いたかと。

                     また、同書 P.344には、「散在型から一円型への移行(例えば、篠木荘等)の背景には、郡司
                    ・郷司ら一族と国司との結託が推察される。」 とも記述されている。

                     更に、同書 P、346には、「12世紀に入ると、尾張の荘園の中には、平氏一門が、領家職・預
                    所職を持つに至っており、こうした荘園については、開発領主としてでなく、寄進の仲介者として、
                    荘園の成立に関わり、こうした職を得たのでありましょう。」とか。「12世紀後半頃 平忠盛・その子
                    頼盛が、尾張守に任ぜられ、以後平氏滅亡までの間、尾張はほぼ一貫して彼等の知行国となって
                    いたが、こうした背景が、一門の領家職への進出を可能とした。」とも記述されている。

                     「吾妻鏡には、建久5(1194)年 志濃義(しのぎ)地頭職は、将軍より故 鎌田正清の娘に、恩
                    補されているようですが、これは、平氏没官領とされた、仲介業務により手に入れた開発領主的な
                    跡と解される。」とも。前掲書 P.359に記述されている。

                     また、尾張地域では、一ノ宮は、現 一宮市の真清田神社、二ノ宮は、大県神社、三ノ宮は、
                    熱田神宮であるようです。この決定は、平安末期頃 12世紀中頃かと。                                              
                    
                 3.林・阿賀良村の支配形態
                    ア、名寄帳に現れている年貢、彼岸米について
                        林村では、彼岸米として二ノ宮(大県神社)に納め、円覚寺へは、年貢として銭貨で納め
                       ている。つまり、林村は、二ノ宮(大県神社)社領であったと考えられる。

                        阿賀良村については、二ノ宮神用米、領家への「郷分の米」、更に二ノ宮社へ生栗や炭
                       等を負担しているようで、ここも二ノ宮社領であろうと推量できるのであり、二ノ宮社との繋
                       がりは、林村よりも早かったのではないかと。

                        小牧市史 通史 P.98には、「この林・阿賀良村は、二つの村であっても、実質的な村落
                       としては、一体であったのであろうと記述されております。また、鎌倉前期、尾張では、もと
                       国衙の支配下にある所領を、在庁官人や領主達が、国衙と関連の深い一・二・三ノ宮へ寄
                       進する事が盛んに行われていた」という事も記述されています。

                        林村々内には、長源寺と三明社があり、この三明社は、現 小牧市大字林字宮前の三明神
                       社であり、延喜式神明帳に「非多神社」とあるのが、三明社であろうという。古老は、昔 この三
                       明社は、二ノ宮の別宮であったと伝えている。長源寺については、その所在は明らかでない。
                        三明社への二季御祭料(お祭り費用)、長源寺への餅米は、両村の全体会計から支出され、
                       この二社の存在が、村の結合の核になっていたし、二ノ宮社領であった事が名主層が、在地
                       領主の進出を阻む口実となり、請書の別相伝地という記述となって言い表されていたといえる
                       のではないでしょうか。

                        この請書も、本来は、鎌倉 円覚寺が、先に地頭職を運用している地域と同様な開発経過の
                       林・阿賀良村に対し、地頭職を口実に、進出してきた事柄に対する在地の名主達の、精一杯
                       の申し立てであり、譲歩でもあったと解する事ができましょう。地頭が、お寺であった事も譲歩に
                       大いに影響したのではないかと推察いたしました。

                        尚、林村の余一左近なる人物は、4町歩の土地と屋敷地を持ち、その内1町歩は、長源寺の
                       修理田、内1反歩は、二ノ宮神宮寺(真長寺・小西寺・・共に犬山市に存在していたと先述の入
                       谷氏によればですが・・筆者注)仏供田とか。林村では、名を持つ人12名中6名は、皆 長源
                       寺・二ノ宮神宮寺・三明社への修理・仏供田のどれかを所持していた。
                        阿賀良村は、名ではないが、初発は13人であり、その内4人が修理田・供御田・仏供田のど
                       れかを所持していた。

                        この請文の内容からは、神宮寺が出てきますので、既に本地垂迹説(奈良時代に起こり、平
                       安時代に成立した説)が貫徹しており、平安期以降、鎌倉初期頃に寄進されたのではなかろう
                       かと推察いたします。
   
                        さらに、この地域は、中世荘園として篠木荘に属するのか、味岡荘に属するのか、不明であり、                         
                       丁度二つの荘園の境であり、どちらにも属さず、二ノ宮社領として存続したのかもしれません。篠
                       木・味岡荘は、どちらも皇室に関係する方の荘園でありました事を付け加えておきます。

                 4.二ノ宮領成立について
                    講座 日本荘園史 5 「尾張国衙領」 上村喜久子氏の論述から、先に同氏 「尾張三宮熱田領の
                   形成と構造」(日本歴史 P、294)に触れつつ、「12世紀前半頃には、国衙領も、荘園化し、三宮領と
                   同様、一宮・二ノ宮領も12世紀前半(平安末期〜鎌倉初期)には、免田型社領の形成が進められてい
                   た事が知られる。」と。

                    「一円型荘園には、平野部と未開の山野を囲い込む荘園があり、山野の囲い込み荘園としては、例え
                   ば、篠木荘・小弓荘等があり、こうした荘園は、ともに、開発領主が、郡司(または、その一族)であって、
                   在庁としての地位をも確保しつつ郡の私領化を進めていた事が知られる。」という。「これらの荘園では、
                   立荘後あらためて、未開地を開き、開発荘園、或いは新荘等を成立させた。」という。( 前掲書 P.34
                   4 参照)

                    この二ノ宮領の一部であります林・阿賀良村を垣間見れば、長源寺修理田とか、三明社修理田なる免
                   田が存在し、この田の名称からは、明らかに寺や神社を修理する為のものであり、その裏には、大工・
                   檜皮師・壁塗り等の現代風に言えば職人が控えているように思える。また供御田・仏供田からは、その裏
                   には寺や神社用の神具・仏具師が控えているように思えてならない。更には、炭の献上からは、炭焼き人
                   の存在を想定する。こうした人々が、純粋な職能民(耕作をしない人)であったかどうかは分かりませんが、
                   農閑期に、そうした職人的な働きをしていた可能性は、否定はできないのでは・・。栗林の存在は、炭材へ
                   の転用も可能かと。栗は、3年で収穫できるようになり、木が大きくなれば、炭材へと転用し、循環させる
                   事も可能でありましょうか。献上分以外は、補助食料か販売用にもなった可能性も否定できないでしょう。

                    供御人なる言葉は、当地に於いては垣間見ることはできませんが、上記の推測が可能であれば、そこ
                   には、紛れもない供御人(クゴニン)と捉える事のできる存在を想定できうるのであります。

                    大縣神社は、古くからの名神であり、古の方々からは離れた存在になっていたでありましょうが、現 稲沢
                   市にある一宮に次ぐ、二宮として国衙等とも深い繋がりを有した神社であったのでしょう。
                    農業技術の未進化・未分化の状況では、神や仏への祈祷が、この当時の人々の唯一の心の拠りどころ
                   であった事が、一宮・二宮・三宮という国衙と切り離しがたい、役目を果たし、国或いは国に準ずる祈祷所と
                   しての地位を築いていったのでしょう。 

                                                                                                                       平成25(2013)年9月17日        一部加筆
                                                      平成25(2013)年10月22日   一部改定